自分だけは救えなかったキリスト

db4o2010-03-25

吉本隆明 五十度の講演」をiPhoneでめくりながら、タイトルを眺めて、これだと思ったものを再生してから枕元に置いて、それを聞きながら寝るのが最近の習慣になっています。

昨晩は、「008 喩としての聖書ーマルコ伝」というやつでした。この中で、「人の事ばっかり言ってないで、自分でやってみろよ」的な話が取り上げられます。つまり、キリストは磔にされたわけで、自分のことは救えなかったのです。吉本さんによれば、つまりそういうことなんだと、そこに大変な真実があると言うのですが、私にはさっぱり分かりません。

むしろ、他人を救済するキリストと、救済される民衆というのは、ここ20世紀の間人間の心を支配してきた、西洋が作り出した人工的なイメージなんじゃないでしょうか。個人と組織、組織と国、個人と国。およそ近代的なところには隅々までそのイメージが拡張されているように思えます。

それよりも、明治時代に日本にいた夏目漱石の講演、「私の個人主義」なんかの方が私は好きです。というか、バイアスのない、素直な人間だと思うんです。

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。


あえて他人に何かあるとしたら、「お父さんお母さんに仲良くしてほしい」、まあそんなことぐらいじゃなかろうかと思うのです。