人が本来持っている聴覚機能について

「どうしてもGが上ずるんだよな」
「おれは低音が上ずりやすいんだよ」

趣味で音楽をやっているけど、うまくまとまらない、うまく演奏できるときとそうでない時がバラバラ、という共通の悩みを持つ友人と話すと、だいたいこういう会話になります。音階を道に例えると、山あり谷あり、はたまた工事中のところもある。

だいたい本人が一番分かっていて、少なくともこの曲だけはうまくできるように、と思って慣らそうとするが、今度はうまく行く時とそうでない時の差が大きい。

そうしてしばらくの間はずーっと、私の音感がひどいせいだと思っていたのだが、一向にこの状態が解消される気配がなかった。


一体全体、誰がこの音階なんていうものを作ったんだ?


例えば絶対音感というような言葉で代表されるような、何か特殊な能力が無いと駄目なのか?だったらなんで誰もが音楽で感動するんだ?という疑問をひも解いて行くと、音律やハーモニーというのは、あくまで人間が本来持っている聴覚機能を研究して編み出されていることが分かってきた。

時代、地域を越えて、最も共通で見られるのは、オクターブという感覚だ。日本や中国のように、オクターブの違いを考慮しなかった地域もあったが、それでもオクターブというのが基準となっている。そしてそのオクターブの中に、5つまたは7つの音を配置して音階を作った。こうした配置の仕方を音律と呼ぶそうだが、通常は西洋の音階、12個の半音を1オクターブ内にどう置くかということに限定されるようである。

この方式は、12個を均等に並べた平均律というのが今日では一般的だが、他にも最適なハーモニーを求めて様々な方式が存在する。ただどの方式でも、12個の半音を置く場合、ダイアトニック(7つの全音)の音階で見ると、1(移動ド)で始まり1(移動ド)で終わるというような引力が強く働くことが知られている。また、波長が整数倍であればハーモニーがきれいに響く。

さらに、Lendvai Erno Szimmentria A Zeneben(レンドヴァイ・エルネー 音のシンメトリー)によると、

順番に現れる全ての和音において自然な音楽の理論に従えばどんな和音が続くはずであるかと無意識のうちに答えを探し、それに代わって実際に進行する和音と比較するのである。この二つの間の緊張の差異が和音の意味を定める

とある。つまり、予想されるコードの進行と実際の進行とのギャップで、ある感情が引き起こされるということだ。


こうして見ると、そもそものオクターブという感覚、その中に置かれた音の引力とハーモニー、さらには曲の中でのコード進行から引き起こされる感情、そういったものの学問が音楽であると捉える事ができる。つまり音楽には、こうした人間の聴覚の研究としての学問という側面と、それを演奏する技術習得という側面があるのだ。


最初の疑問に戻ってみると、音律の議論が最も盛んだったのは18世紀。科学者が群がるように独自の音律を発表した時代を生き残った、私にとっての音階は、1オクターブ内に12個の半音を平均律で並べた音階のことだった。そして面白い事に、私たちの感覚は相対的なものであって、絶対的ではない。そういう意味で、現在A440(A4を440Hz)と定めるのは便宜的なものに過ぎず、それを絶対的に捉える能力は人間本来の能力であるはずがない。つまり絶対音感というのはたいして重要ではなく、それよりも相対的な音によってどのような感情が引き起こされるのか、それを感じ取る能力こそ重要なのではないだろうか。

そうして考えてみると、各調の音階練習が、感覚と技術の両方で、一番の基礎となっていることがよく分かる。