政治は必要悪

db4o2007-11-04

先ほどこんな記事を見かけた。「ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会糸井重里さんとの対談です。


あれはいつの頃だったか、サンフランシスコへ飛行機で行くと10時間もの暇をもてあますので、講演集とか源氏物語の朗読とか、なんかだらだら時間をつぶせるものはないかと探して、新潮社のCDを買った。そのうちの一つが、三島由紀夫早稲田大学で学生と質疑応答をした、「学生との対話」だ。今見てみると、なんと講演部門で売り上げ第一位となっている。

私の持っていたせいぜいの知識は、なんか切腹した頭のおかしい人らしい、だけだった。しかしどうだろう、鼻息の荒い学生達を相手に、ユーモアたっぷりに、でも真正面から真剣に答えている。

この中で三島さんは、言論の自由をとっかかりにして、政治とは、自然を含む恐ろしい人間性(human nature)から人間(humanity)を救い出す保護観察であり、そのための権力機構を持ち、権力機構の維持という機能も併せ持つものだと考えられると言う。そして、政治の保護者的な役割が強まると、個人の自由は制限されるようになるので、そのバランスをどうしたらよいのか、と問題提議しています。

これに対して学生からいろいろな質問を受けながら、進んでいきます。

その中で三島さんが一貫して主張しているのは、

個人の自由とは、組織や社会の自由や目的の上に存在するのではなく、人間本来が持つ、止むにやまれぬものなのだ

ということです。(これに対してはいろんな議論がなされるので、興味がある人は聞いてみてください)

そしてそう考えた時、政治というものは、必要悪に過ぎない、と。何ら理想主義的なものが存在しえない、と。

なるほど・・・・。個人の自由や幸せというのは、自分で追求するんだよ、政治は犯罪などのマイナスは取り締まるが、一切のプラスは生まないんだよ、そんなことを示唆しているように思えます。


「ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会」は、保護観察機能のさらに進んだ側面を露呈していると考えます。つまり国家権力が秘密警察を作らなくとも、国民が自主的にその役割を担っている、というように。それって、自らの自由を損なうっていうことなのに。奇しくも40年近く前のこの中で、三島さんは、ナショナリズムの時代にも増して、国家の力は大きくなっており、史上最大だと言っていたが、自由よりも保護観察を強化するのが人間(Humanity)か・・・。

政治は必要悪・・・。