変人の真価

振り返ってみると、今年は私にとって大きな節目となる1年になった。何かが終わった年でもあり、同時に何かが始まろうとしている、そんな年だ。

終わった、という意味で一番大きかったのは何よりも父の死であり、それが否応無しに、私に次のステップへ進むよう、何か新しいことを始めるよう促した。停滞や減速はマイナスとなり、どこか暗い底の方へ私たち家族を引き込んでしまう。

ちょうど12年前、自分の力で人生を切り開きたいともがいたあの頃は、本当に何も無かった。そこでは役に立たないパイロットのライセンスだけだった。IFRも、コマーシャルも、マルチエンジンも、自動車の運転免許以下でしかなかった。

営業から始め、オープンソースを活用したデータベース構築を軸に株式会社化、さらなる技術を求めてシリコンバレーのスタートアップの日本支社を立ち上げた。

五大陸の人間が全員リモートで働き、半年に一度ぐらいの頻度で、世界のどこかに集まり、集中的にミーティングをした。一番素晴らしかったのは、英語とは何かということが分かったことだ。

英語は、世界中の人とコミュニケーションをさせてくれるツールなのだ。もしそこにアメリカやイギリスと言った文化を押し込んでしまった場合、そのピュアな性質は一気に薄れてしまう。それぞれが母国語のアクセントと母国語を元にした不思議な単語を使い回すのだが、それでもコミュニケーションを成立させてしまう、それが英語だったのだ。

そこでは細かい文法の違いは指摘されないし、仮に合っていたとしても、要するに問題は内容であり、全く異なる文化や生活をしている人たちを感動させたり納得させたり、導いたりできるかどうかなのだ。大げさでなく、どう生きるか、ということなのだ。

つまりここで言う英語というのは、日本語をないがしろにして、とかそういう議論とそもそも相容れるものではない。日本語だろうが何だろうが、何を考え何を語るか(または語らないか)が重要なのであり、形式としての日本語自体に意味はない。

むしろこうしたグローバルランゲージとしての英語を使える人は、日本語で考える、ということの重要性をよく分かっている。英語でしゃべったり考えるということと、日本語で考えることは違う。英語で考えつかないことや視点に、日本語で考えると出会えたり、その逆もしかりなのだ。

書評人

このサイトは、先日パロアルトで会ったhkmurakami君に教えてもらったサイトだ。面白かった本の書評をするだけのサイトなのだが、無味乾燥な要約的書評ではなく、ここに集まる変人(失礼)が切り開いた、または切り開こうとしている人生の中で出会った本を紹介している。

レビュアーのみなさんのプロフィールを見ていると、2000年頃のドットコムバブルの時に水面下で増殖したオープンソースプロジェクトのように、日本人でない日本人が世間とは関係無しにどんどん増殖しているようで嬉しくなる。

だからこそ、来年は変人の真価が問われる大事な一年になる。こうした試みがやはり一握りの変人として扱われて終わってしまうのか、それともより多くの人に変人として生きるチャンスを与え、サラリーマンや公務員だけが人生ではない、ということを証明することができるのか。